2018年03月08日 (木) 06:16 | このエントリーを含むはてなブックマーク はてなブックマーク - 天ぷらの歴史 (天麩羅処ひらお) | | | Edit |
福岡には早い、安い、美味いの3拍子を極めたような天ぷらの名店、天麩羅処ひらお(旧店名:天ぷらひらお)がありまして。
家族揃ってでも、妻子が帰省中の一人の時でも、もう何度も通っているのですが、この間ふと「ひらおは創業何年なんだろう?」と思ってホームページを覗いた際に、うっかり1,500年前まで遡って 天ぷらそのものの歴史 を調べてしまいました。 そんな風にうっかりする程面白かったので、ここにごく簡単にまとめておきます。


●西暦500年(6世紀)頃にあったペルシア料理、シクバージ

当時、現在のイラン・イラク辺りを中心に巨大な領土を形成していたササン朝ペルシア帝国には、シクバージ(sikbaj)と呼ばれる牛肉の甘酢煮込み料理がありました。

東ローマ帝国(青)とサーサーン朝(黄)
東ローマ帝国(青)とサーサーン朝(黄)

ワインビネガーやハチミツを入れて煮込んでいたようですが、揚げ物ではなく、牛肉には衣は付いておらず、まだ私達の知る「天ぷら」とは大分違うものです。
この帝国の起源同様、この料理の起源もはっきりしませんが、ササン朝ペルシア帝国の最盛期と称される時代の王、ホスロー1世(在位:531年-579年)の好物がシクバージだったという記録が残っています。

この後、シクバージは、ペルシア帝国を滅亡させたイスラム王朝・共同体に受け継がれ、更にヨーロッパ周辺へと広がっていきます。
10世紀(900年代)には既に牛肉の代わりに魚を使ったシクバージが作られていたようですが、現在見つかっている最初のレシピは13世紀のエジプトのものです。小麦粉をまぶした魚を油で揚げて、酢とハチミツと香辛料で味付けします。
酢酸には殺菌効果があり、酢は保存食作りに欠かせないものでした。そこでシクバージは船乗りたちに重宝され、更にその船乗りたちが牛肉に代わり手に入りやすい魚を使うようになったという経緯のようです。
また、中世のキリスト教には肉、乳製品、卵を口にしない断食日の習慣があったので、魚料理はキリスト教徒に歓迎されました。 そして船乗りたちによって地中海の西側にレシピが広がり、シチリア語でスキッベチ(schibbeci)、ナポリ語でスカペーチェ(scapece)、カタルーニャ語でエスカベッチ(escabetx)、オック語でスカベチ(scabeg)という名前で同じ料理が残っています。

ユダヤ人を介してイギリスに渡ったこの料理は、現在のイギリスの有名な伝統料理「フッシュ・アンド・チップス」となりました。 また大航海時代(15世紀~17世紀)に、スペイン人の手により南米大陸に到達したものが「セビーチェ」となり、一方、ポルトガルで派生した「ペスカド・フリート(pescado frito)(魚のフライの意)」がイエズス会のポルトガル人宣教師の手で日本にもたらされ、それが「天ぷら」へとなっていきます。

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フッシュ・アンド・チップス と ペスカド・フリート


●「天ぷら」という料理名の起源は?

「ペスカド・フリート」が日本に伝わったのは今から約450年前、室町時代の後期、いわゆる戦国時代のことです。 1543年に鉄砲がポルトガルから日本(鹿児島の種子島)に伝わったのとほとんど時を同じくして、日本(長崎)に伝わったと言われています。
それ以前(奈良時代以前)の日本には、唐菓子(からくだもの)と呼ばれる米の粉を練って形を整えて油で揚げる菓子が中国から伝来したりはしていましたが、当時の日本において油は灯火などに使う高価な貴重品であり、料理に使われる事はありませんでした。 長崎に上陸したこの南蛮料理(初期の天ぷら。まだ衣は無い)は調理に大量の油を使うことからしばらくは高級なご馳走でした。そして当時の都である関西に伝わり、さらに同じ頃、江戸では江戸幕府が開府し、初代将軍徳川家康公(1543~1616)はその初期の天ぷらを食べて体調を崩しそのまま亡くなってしまいます。これは「家康は天ぷらを食べて(食中毒で)死んだ」と言われる有名なエピソードですが、この当時まだ「天ぷら」という言葉は存在しません(記録には残っていません)。
長崎・関西・江戸でこの南蛮料理はそれぞれ影響しあいつつ独自の進化を遂げていき、家康の死から100年以上経った1700年代中期に、現在のように衣を付けて揚げる天ぷら(「てんふら」)のレシピが文献に登場するようになります。また、その頃、菜種油精製の技術が確立されて飛躍的に生産量が増えたことに伴い、天ぷらは庶民の間に大衆料理として広まり、江戸を代表するファストフードにまでなっていきました。
さて、その辺りの話は後でもう少し詳しく触れるとして、「天ぷら」という料理名はどこから生まれてきたのでしょうか? 結論から言うとこれには諸説あり、語源は定かではありません。


・ポルトガル語のテンペロ tempêro (調理あるいは調味料の意)から転じたとする説

・ポルトガル語の temperar (動詞:「調味料を加える」「油を使用して硬くする」の意。三人称単数で tempera)であるとする説

・スペイン語・イタリア語の témporas (カトリックの四季の斎日(英語:Ember Days)の意。祈りと断食をおこなう日)、又は同じ意のポルトガル語 temporras であるとする説

・スペイン語・イタリア語・ポルトガル語のテンプロ templo (寺の精進料理)であるとする説

・ポルトガル語の temporal (一時的な・臨時の)から来たとする説

・油を「天麩羅」(あぶら)と書いていたものが後に音読されるようになったとする説

・中国の古い料理で肉の油揚の「塔不刺」(タアフラ)から来たとする説

・天火揺らり(テンピユラリ)を語源とするとの説

・卵白を混ぜた絵具「テンペラ(英語)」から来たとする説



主な説はこんなところでしょうか。
最初に挙げたポルトガル語のテンペロ(調理)という説が現在一般的に有力視されています。ただ、他の説も調べるとそれぞれここに至るまでの歴史などに基づくなかなか説得力のある論拠が出てきて捨てがたい魅力があります。興味が沸いた方は、調べられると良いかと思います。 例えば言語学的な観点で調べれば、きっと上に挙がった言葉たちがほぼ同じ語感の単語である理由、もしかしたら元は同じ語源の単語でありながら歴史の中で違う意味を獲得していった経緯、あくまでもしかしたらですが、そういった事から世界の歴史の面白いつながりが見えてきたりするかもしれないなぁ、なんて思います。 (なお残念な事に、こと今回の天ぷらルーツを辿る中では、Wikipediaには矛盾したり誤っている情報が散見されたので、要注意です。)


ところで、天麩羅って漢字で書ける日本人はどれだけいるのでしょうね。私は書けません。



●現代に通ずる「江戸前天ぷら」の誕生

さて、話を少し戻しますが、

長崎に上陸した「ペスカド・フリート」は、小麦粉をまぶした魚を揚げる、要は空揚げです。
これは当時、「南蛮揚げ」「長崎揚げ」と呼ばれていました。
家康公が食べたものも、こうした料理です。

「ある日、家康公は大勢の供を引き連れて好きな鷹狩りに出掛けていった。そこへ家康と懇意にしていた京都の豪商が尋ねてきて世間話をするうちに、京の都で食べた鯛を榧(かや)の実の油で揚げ、その上に薤(にら)をすりかけて食べたのが美味しかった、と聞いた。ちょうど家康の手元には鯛が届けられていたので早速そのように作って食べた。ところが、その晩から腹痛を起こし、回復しないままその3ヵ月後に死んでしまった。」 (『徳川実紀』から省略現代語訳)

そして「家康は天ぷらで死んだ」と語られるようになるわけですが、但し、死去まで3ヶ月かかっていること、同じ文献に残る病状記録が胃がん患者のものと似ていることから、直接の死因は胃癌だったという説が現在有力です。 また、先ほども書いたようにその当時はまだ天ぷらという言葉が存在した形跡は見当たりません。 この話はむしろ、後の江戸の世で、「あの質実剛健・質素倹約の代名詞であるような家康公が、食事はもちろん健康全般にかなり気を使って、平均寿命が40歳にも満たない時代に75歳(※数え歳)まで生きた家康公が、我を忘れて死ぬほど大食いしてしまうほど天ぷらは美味しい物なのだ」という文脈で語られた半ばジョークのようなものだったのではないか、と思います。
実際、初代将軍がそれで体調を崩した(亡くなった)という割には、江戸の市内はもちろん城内でも天ぷらが忌避されるようになったというようなエピソードは見受けられません。 この少し後、江戸城内では天ぷらの調理は禁止され、江戸市内にも屋内での天ぷら調理を禁止する法令が出来ましたが、これは単に火災防止の為でした。 江戸城は木造建築で何度も火災が起きており、全焼した事もあります(※全焼を天ぷらのせいと記述したブログが散見されますが、デマです)。 木造長屋が密集していた江戸の町でも、火事は起きやすく、また起きた後は広がりやすかったのです。
こうして屋内調理を禁止された事が、また結果的に天ぷらが大衆の江戸風物として広まる一助となります。

しかし、「南蛮揚げ」はどのように現代の「天ぷら」へと姿を変えていったのでしょうか?

1643年の江戸初期の代表的料理書『料理物語』には、まだ衣揚げもてんぷら(と思しき名)も記述がありません。

現在、衣揚げは、江戸幕府が1634年に外国貿易の窓口として長崎に人工島の出島を築造し、その地で日本とポルトガル・オランダ・中国などの文化が混じり合った中から生まれたものの1つ、と言われています。 これが今で言う「長崎天ぷら」です。当時の呼び名は不明。
長崎天ぷらは、衣(小麦粉)に砂糖、塩、酒、玉子などが入っており、それをラード(豚の油)で揚げた味の強い食べ物です。天つゆなどは付けずにそのまま食べます。今も長崎の郷土料理として残っています。

長崎天ぷら

この長崎天ぷらが、上方(京都)に渡ると、野菜を中心としたタネを、菜種などの植物油で揚げる「つけ揚げ」に発展します。衣をつけて揚げるから「つけ揚げ」となったようです。タネが野菜中心だったために、自然の味を損ねないようにクセの少ない菜種油で揚げて塩をつけて食べていたらしく、また、衣も玉子や調味料を混ぜないので、揚がっても見た目は白っぽかった模様です。
これが江戸に伝わると、江戸では日本橋の魚河岸で商われる魚介類をタネにごま油で揚げる「ごま揚げ」として定着します。こちら江戸では魚の臭みを抑えやすいごま油が用いられ、衣も玉子入りだった為に揚がりはキツネ色に。

現代の「天ぷら」に通じる「てんふら」が文献に初めて登場するのは、『黒白精味集』(1746年)や『歌仙の組糸』(1748年)だと言われています。

「てんふらは、鯛の切身にうどんの粉(小麦粉)を卵でねった衣をつけて油で揚げる」
「てんふらは鯛切身でも何魚にてもうどん粉をまぶして油にて揚げる也。 菊の葉、牛蒡、蓮根、長いも、その他もうどん粉を水と醤油で溶いて塗りつけて揚げればてんふらになる。 それ(醤油味の衣)を魚に用いても良い。」


9代将軍・徳川家重の時代の話です。
上記はどちらも少々現代語訳していますが、この記述(衣に味をつけた上で揚げる)を読む限りでは、まだ天つゆに浸けるスタイルは定着していなかった様子ですね。
この頃、特に菜種油が安価に大量生産されるようになったことで、使われる油はごま油(魚の臭みを抑えやすい)から菜種油(さっぱり)が主流になります。 また、天ぷらは当時としては最もカロリーの高い、腹持ちの良い食品である点が人気の一因であった為、衣は厚め(つまり油多め)が好まれたようです。江戸時代の屋台では厚めの衣をサクッと揚げるだけの火力を出すのは難しく、やがて、天つゆや大根おろしを用いることで魚の臭みや油のくどさを緩和させるスタイルが定着します。更に、手が汚れないように天ぷらは串に刺して供されるようにもなりました。
こうして出来上がった「てんぷら」は、屋台で気軽に立ち寄れて、気軽に食べられて、安くて、腹持ちも良い、そして美味しいという条件が揃った、まさにせっかちな江戸っ子庶民にぴったりのファストフードであり、江戸独特の風物として花開いたのです。

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当時の様子を描いた絵では、武士が手拭いで頬被りしながら屋台で天ぷらを食べている姿が描かれています。これは当時、天ぷらが大衆の下賤な食品と見做されるような風潮があり、武士たるものが堂々と食べる事ははばかられたという事だったらしいです。
しかしこの後100年ほどが経った幕末近くには、店構えの天ぷら屋が現れ、試行錯誤や高級化が進み、料亭でも出される料理になっていきます。屋内での天ぷら調理を禁じる法令は続いていたものの、儲けが優先され、この頃は幕府の威光も落ちていたので無視された模様です。

江戸幕府最後の将軍、15代将軍・徳川慶喜公は大の天ぷら好きであったことは有名です。
江戸城内では変わらず天ぷら調理はご法度であり続けたものの、慶喜公は勝海舟を通じて天ぷらの味を知ったらしく、天麩羅屋「天金」の常連客となります。 慶喜公は特に天金のかき揚げを好んだと言われ、店は御殿様にお好みのかき揚げを届けたり、お忍びで店に来たりもしたそうです。
ku099-滑稽新聞-天金 天麩羅屋 暖簾

ちなみに、この「天金」は、1864年(江戸幕府が倒れる4年前)の創業で、現在の銀座4丁目の角の「和光」がある場所に店舗がありました。東京で一番有名な天麩羅店とも言われましたが、関東大震災や太平洋戦争の東京大空襲で店舗の消失・再建を繰り返しながら、場所を銀座5丁目、6丁目と変えていき、最終的に1970年に閉店しています。
尚、明治から大正時代にかけての東京での天麩羅の三大有名店は銀座の「天金」、新橋の「橋善」、浅草の「中清」だったと言われていますが、現在残っているのは浅草の「中清」だけです。

 天麩羅 中清 (なかせい)
   [食べログ]  https://tabelog.com/tokyo/A1311/A131102/13003659/
   創業明治3年の雷神揚げが有名な天麩羅屋さん
   名物である雷神揚げ定食(芝海老と青柳の貝柱のかき揚げ)は3,000円(税別)




●江戸以外における「天ぷら」

あとはこぼれ話のようなものですが、もう少しだけ天ぷらについての話を。


前項で紹介したように、現代の「天ぷら」に通じるレシピの「てんふら」が文献に初めて登場するのは1750年頃の事ですが、「てんふら」と称される料理が文献上に初めて登場するのは、その80年ほど前、の医師奥村久正によって著された『食道記』(1669年)だと言われています。 家康の死後約50年の頃です。
しかしその本の記述では、「てんふら」は鶏肉のタタキと鎌倉海老を餡掛けにしたものだとされています。揚げる要素は見当たらず、天ぷらとはまるで違う食べ物です。

この天ぷらの原形が形成されていった初期には、「てんふら」は必ずしも衣揚げ又は揚げ物を指しませんでした。 魚のすり身の素揚げ(今でいう薩摩揚げ)をはじめ、茄子の煮物、味噌煮、こんにゃく、など様々なものが「てんふら」と呼ばれた記録が残っています。
江戸においても、1700年代後半になってようやく今のような衣揚げだけを天麩羅と呼ぶようになったようですが、さて、前項で書いた、長崎から京都、江戸へと衣揚げが渡っていった際に、京都では「つけ揚げ」と呼ばれていた事実を覚えていらっしゃいますか?
京阪においては、江戸末期においても、衣揚げはもっぱら「つけ揚げ」と呼ばれ続け、京阪で天ぷらといえば魚のすり身を油で素揚げしたものを指したようです。 現在でも主に西日本で揚げ蒲鉾のじゃこ天や薩摩揚げなどに「てんぷら」という呼び方が残っているのは、その頃の名残でしょう。

京阪で揚げ蒲鉾をてんぷらと呼んだのが先か、江戸で衣揚げがてんぷらと呼ばれるようになったのが先か、が分かればまた何か見えてきそうな気がしますが、すいません、私にもう余力が無いので調べません。

ともあれ、明治以降、料亭でも供される高級食としての江戸前天麩羅が登場してから、それが関西にも広まっていきます。
更に天ぷらの転機として見逃せないのが大正時代の関東大震災(1923年)です。 店が焼け落ちて職を失った職人達が各地に移ったことで、全国に江戸前の天ぷらが広がっていきました。衣揚げを天ぷらと呼ぶ文化もです。 火事を予防しようとして江戸に広がった天ぷらが、今度は火事をきっかけに全国に広がった。 また逆に関西の職人が上京した事から野菜揚げに塩をつけて食べる事も東京に広がりました。オリジナル(つけ揚げ)の要素を取り込んだんですね。

オリジナルと言えば・・・、現在も「南蛮漬け」という料理がありますが、これなんかは魚などを油で揚げてネギや唐辛子と一緒に酢漬けにした料理ということで、長崎に上陸した「ペスカド・フリート」からその前のオリジナルである「魚のシクバージ」にまで立ち返った料理だと言えそうです。
南蛮漬け


もうひとつ、最後のこぼれ話として、

薩摩揚げの本場、鹿児島では、薩摩揚げはもともと「つけあげ」と呼ばれていました。

揚げ蒲鉾のことを、鹿児島ではつけあげと呼び、京都ではそれを天ぷらと呼び、その京都では衣揚げの事をつけあげと呼び、それを江戸では天ぷらと呼び。 そんな時代があったのです。面白いですね。
そうなったのは、鹿児島の薩摩揚げは南蛮から長崎・京都を経て伝わったものではなく、沖縄の「チキアギー」と言われるグルクンなどの魚のすり身を丸めて素揚げしたものが江戸時代に交易を通じて鹿児島に伝わり、その料理名がなまって「つけあげ」になったものだと言われており、京都の「つけ揚げ」とは発音が偶然一致しただけの全く別の由来の言葉だったという事のようです。 薩摩藩と琉球の交流が盛んになったのは今から約150年前の1864年頃、藩主・島津斉彬の時代に琉球を統治するようになってからで、そこから薩摩揚げが鹿児島に伝わって県内で多く製造されるようになったと言われています。(ちょうど西郷隆盛を主人公にした今のNHK大河ドラマ『西郷どん』の時代舞台と重なるので、なんだか親近感が。) また、奇しくも1864年といえば、天麩羅屋「天金」が創業した年でもあります。

沖縄のチキアギーはどこから来たのか?中国福建省からだろうか?という事も、これもやはり調べ始めると大変な事になるというか私にもう余力が無いので調べません。




そしてなんとここまでが前置きです。

いえ、前置きのつもりでした。
3行でとは言わないけど10行くらいでまとめるつもりがうっかり長くなり、むしろ前置きが本文になってしまいました。約7000文字って、馬鹿か俺は。かなりの時間も掛けました・・・。


●天麩羅処ひらお

このお店を紹介したくて書き始めた当記事なのになぜこんなことに? もうここからは本当に短くいきます。

一番最初の行に書いたように、天麩羅処ひらおは早い、安い、美味いの3拍子を極めたような、福岡の超有名・超人気店です。 創業してから約40年
ただ、天ぷらはいわゆる福岡名物グルメとは違うので、県外の人への知名度は低いかと思われます。 ちなみに最近(2017年夏頃に)ロゴというか店名が変わり、「天ぷらひらお」から「天麩羅処ひらお」になりました。

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 天麩羅処ひらお 早良店
   住所: 福岡県福岡市早良区重留2-15-27
   営業時間: 10:30~21:00
   定休日: 年末年始(12/31~1/3)
   電話番号: 092-804-4888
   予約: 不可

   [オフィシャルHP] http://www.hirao-foods.net/
   [食べログ]  https://tabelog.com/fukuoka/A4001/A400203/40006456/

   ※この他、福岡県内に全6店舗
   ※本店は福岡空港に面していますが、国内線ターミナルからはちょっと遠くて徒歩15~20分。
     もしくは空港の前から西鉄バス(39番・43番どちらでも)に乗って東平尾下車(停留所3つ目かな)。


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6店舗の全てで、昼時・夕食時には常に長蛇の列が出来ます。
全席全てカウンターで、待つ人は壁際のベンチに座って並んで待ちます。本当に混んでいる時はそこにも収まりきらずに、店外まで行列が伸びます。しかし回転が速いので、そんな場合でもせいぜい30分ぐらいの待ち時間で席に着くことが出来ます。
雨が降る日曜日の午後3時半、しかもクリスマスイブという、考えうる最高に空いてる時間に行ったら、確かにひらおにしては驚くほど空いていました。それでも客席の半分ほどが埋まっている状態。ゆっくり食べて4時過ぎに店を出る頃には、早めの夕食に来た人達で席の8割ほどは埋まり始めていましたよ。

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食券制。
基本となる7種類の定食には、7品くらいの天麩羅に、ごはん、お味噌汁が付いて、いずれも700~800円くらい。安い! そこに単品を追加する事も出来ます。ちょっと珍しい魚の天ぷらもあったりします。

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惣菜4種類は食べ放題。
中でもいかの塩辛がひらおの名物です。塩辛は買って持ち帰ることも出来ます。
席に着くと、まずはごはん・お味噌汁・天つゆが出てきます。多くの人が、早速塩辛をおかずにごはんを食べ始めます。柚子が効いた塩辛が美味い! 間もなく天ぷらも揚がり次第に出てくるけれど、下手をすると天ぷらが出てくる前にごはんを食べ終わりそうなほどごはんが進むので要注意(笑)。ペース配分を考えましょう。

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揚げたての天ぷらも勿論美味しい。
天つゆは色が随分濃い(黒い)ですが、見た目と違って味はさっぱりしています。ひらおオリジナルで、製法は企業秘密なんだそうです。大根おろしは追加も頼めるけれど、頼まなくても十分。 また、カウンターには抹茶塩、カレー塩、胡麻塩も用意されています。お好みでどうぞ。

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店内は油臭いとか、ギトギトベタベタしてるとかは全く無く、大衆的でありながらすっきりした店内。 子供用チェアもたっぷり用意されていて、小さいお子様連れの家族もたくさん来ています。 こじゃれたカップルもいれば、私のような地味な庶民(クリスマスイブお一人様男子)も。色々な人が席を並べつつお互いを気にする事なく、皆がただひたすら「美味しい!」と思いながらあっという間に食べ終わる事が出来る幸せな約30分間を過ごせるお店。

私は、江戸前天ぷらの1つの到達点がここにあると思っています。


このクリスマスイブの夕食が、生まれて初めて作ったハンバーグだったのはまた別の話




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ジャンル:グルメ
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