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2018年07月20日 (金) 01:13 | このエントリーを含むはてなブックマーク はてなブックマーク - 爺さん(1917年生まれ)から贈られた木馬 | | | Edit |
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私の家には古い木馬がある。
底面には父方の祖父の名が刻まれている。
「○○年○月 (私の名)満一歳 誕生祝 祖父○○」 
私が小さい頃にだいぶ使い込んで小さな傷がたくさん付いているが、優しいフォルムのその木馬はしっかりした作りの品で、今では私の娘が楽しそうに使っている。

先日、その祖父が亡くなった。

100歳だった。

同じ事を何度も繰り返ししゃべるなどするようになってきてはいたものの基本的に頭も体もしっかりしており、去年は誕生日の直前に一度体調を崩したものの持ち直し、無事、本人も楽しみにしていた100歳の誕生日を迎え、遠方に住む私もお祝いの品を送ったし、市からも賞状や記念コインみたいなものを貰ったそうだ。 先日生まれた長男も一度会わせに行きたいと思っていたのだけれど、また体調が急激に悪化し、今度は駄目だった。
しかし大往生だったと言えるだろう。

それにしても100年とは畏怖を感じさせる長い年月だが、あまりピンと来ないので、爺さんが生まれた 1917年 (大正6年) はいったい何があった年なのか調べてみた。

それは第一次世界大戦の真っ最中であった。(第二次どころか第一次かよ。)
中華民国で孫文が広東軍政府を樹立したとか、ロシア革命が起きたとか、フィンランドがロシアから独立を宣言したとか、歴史上の出来事としか思っていなかったものがその年の年表に並ぶ。 ニコン(当時は日本光学工業株式会社)、森永乳業(当時は日本煉乳株式会社)、明治乳業(当時は極東練乳株式会社)が創立されたのもこの年。 Wikipediaによればフィクションの世界では、いちご坂がノワールの手によって闇に落ちるも当時のプリキュア・ルミエルがノワールと戦った(アニメ『キラキラ☆プリキュアアラモード』)のもこの1917年だそうである。マジかよ。
しかし何より私にとって一番インパクトがあった事実は、この祖父が 第35代アメリカ合衆国大統領 ジョン・F・ケネディ とタメだった事だ。 それを知った瞬間に胸に湧き上がったのは、特に意味も無く面白がり感嘆する気持ちと、少し恐怖にも似た畏怖が半々くらいの気持ち。 それは遠い過去の、『歴史』としか認識していなかった出来事(しかも主に戦争)が身近に感じられた瞬間だった。
100年は、世界が何度も大きく変わりうるだけの年月であると共に、人ひとりが生ききる事が出来るだけの年月でもある。 長いような、短いような。

近い親族だけの小さな葬儀が行われ、通夜の喪主挨拶では爺さんの生涯が紹介された。
東北の田舎の裕福な家の9人兄弟のひとりとして生まれたものの、バス事業が失敗して一家困窮する生活に変わり、戦争が始まって中国に派兵され、負傷し、亡くなった戦友の妹と結婚し、無一文で大陸から引き揚げてきて、、、と、意外なように当然のように波乱万丈で、そして私は初めて聞く内容が多かった。

私はまだ長男が生まれたばかりであったので、遠方で行われるこの葬儀に妻子は同行せず一人で来た。集まっていた親戚の中には私が約30年ぶりに会うような人も多かったが、再び顔を合わせることが出来たのは良かった。よく言われる事であるが、これも故人=爺さんのおかげと言える。
大往生ということでしんみりより和気藹々とした通夜の食事が終わり、人が減りテーブルも綺麗に片付くと、今度は女性陣だけが1つのテーブルに集まって(男性陣は距離を置いてさっさと解散)、今だから言える爺さん・婆さんについての暴露話を笑いあう女子会が始まった。 翌日の告別式まで含めて、皆から100年を労われ、感謝され、誠意を持ってしっかりとした葬式で温かく送り出された爺さんであるが、しかしそこは大正生まれの爺さん(と婆さん)である。 家族旅行中に訪れた温泉旅館の女将さんに一目ぼれした爺さんのエピソードなんかは普通に笑える話だったが、我が子らやその嫁達に(現在の価値観からすれば)まるで洒落にならない理不尽・傲慢な仕打ちをした事も1度や2度ではないようで・・・地獄の女子会は夜遅くまで続いた。 まぁそういう事も含めたものが「弔う」という事なのかもしれない。


かく言う私も、この祖父母とは色々あって約25年間にわたり一切の関わりを絶っていた人間(爺さんの長男の長男)なのである。

4年前、私の結婚式の時に、私は爺さんに電話を掛けた。
その電話で私と祖父は約25年ぶりに言葉を交わした。

爺さんは私の結婚にあたり祝儀金を私の父に託した。祝儀と共に父に託された伝言は「この金は返さないで受け取って欲しい」だった。私は少し考えてからその祝儀を受け取ることにし、電話はお礼を言うためにすぐ式場の待合室から掛けた。短くも普通の会話をした。
それがきっかけとなって疎遠ながら交流が復活し、2年前には私は妻子を連れて家族旅行がてら爺さんに会いに行った。
当時、爺さんはまだ(既に)98歳。 爺さんはサービス付高齢者向け住宅に入っていたが、まだまだ元気で頭もしっかりしていた。 正直に言って、どんな面会になる事かと危惧もしていたけれど、どこにでもいる祖父(母)と孫のような和やかで穏やかな時間を過ごす事が出来た。 嫁も安心したのではないかと思う。
この約30年ぶりの再会が、私と爺さんの生前最後の対面となった。


私と祖父母の間の真に暗い思い出を語る気は無いが、ただ、「この金は返さないで受け取って欲しい」の言葉の意味はここに書いておこうと思う。


30年ぶり且つ生前最後の対面時、1歳になったばかりの私の娘が曽祖父に上機嫌にあやされつつ大泣きする様子を見ながら、私は木馬のことを思い出して、
「爺さんが私の1歳の誕生日のお祝いにくれた木馬、まだ現役で今はこの娘ちゃんが漕いで良く遊んでいるよ」
と言ったのだが、爺さんは何のことだか分からない様子だった。 まぁ98歳じゃなくてもそんな昔に人に贈ったプレゼントを忘れてしまうのは仕方ない。しかし、そうではなかった。

後日、私の両親から木馬の件について「あの場では言わなかったが」と説明された。

あの木馬は、爺さんから誕生日祝にと貰ったお金で両親が選んで買って、底に祖父名を彫ったものだという事だった。だから祖父は木馬の認識がそもそも薄い。そして・・・
私は中学生時代に、祖父から、それまでに祖父母から貰った誕生祝やお年玉などについていつ・いくら渡したかが書かれたリストを送りつけられ、その金を全て返せと迫られた。 何か喧嘩していて売り言葉・買い言葉でそういう流れになったわけではなく、祖父母が金に困窮していたわけでもなく、ただ、そう、故人である事に配慮して言っても、祖父母はそういう無茶を言って相手が困ったり怒ったりするのを見て喜ぶような人達で、その意地悪に特に理由は無かった。 この返金要求については最初は「何を馬鹿な」と跳ねつけたけれど、その後の挑発的な催促にキレた両親はその金額に利息を上乗せして祖父に突き返したのだった。 つまり、今やこの木馬は祖父の金で買った物だとすら言えないのだ。
私は、お年玉などを全て返した事はもちろん覚えていたけれど、木馬もそこに含まれる品だったとは知らなかった・・・。(そんな話は知りたくなかった、と聞かされた当初は両親にイラついたものだ。)

元々疎遠だったし、絶縁の主な理由は全く別にあるが、最終的に私と祖父母が完全な絶縁状態になったのはこの粗末な返金事件からだった。
そうして私の妹の葬式に彼らは参列せず、婆さんの葬式に私達は参列せず、お互いその墓の場所すら知らない。一切の連絡も取らなかった。ずっとそのままで良いと思っていた。

長い年月の断絶後、どんな心の動きがあって爺さんが結婚祝儀を「この金は返さないで受け取って欲しい」という伝言と共に父に託したのかは分からない。 改心するような人ではないと思っていたが、とうに祖母が亡くなり、いよいよ老人ホームに入り、100歳も近付く年齢となって何か思うところがあったのか。

一方の私は、結婚祝儀からの交流復活が無ければ、今回私が祖父の葬儀に行くことも無かったはず。 それで良いと思っていた私が、結婚祝儀を受け取り拒否せず祖父との絶縁状態を解消する方向に歩むことにしたのは、妻子の為になる可能性を感じた事だけが理由であった。
それから4年。 葬儀で祖父を穏やかな気持ちで見送った今は、許せぬ事は許せぬまま、それはそれとして祖父母がいなければ私もこの子供たちも世に存在しなかった事、そして2度の世界大戦を含むこの100年、いや他の時代であっても100年間という人生の凄みにある種の敬意を抱きつつ、一般的=幸せと呼べるような祖父と孫としての形で最後を締めくくる事が出来た事を大事に、これで良かったのだと思っている。
私は、娘や息子に対して、祖父母(子供たちからすると曽祖父母)について優しかったとか良い人だったとかの作り話をする気は無い。だが特に悪い事を伝える気も無い。 ただ木馬の裏に祖父の名前が彫られている事、娘は赤ちゃんの頃に祖父に実際に会ってあやしてもらった事、息子には祖父が誕生を喜んでくれていた事を伝えようと思う。
近い将来にはまだ赤ちゃんの息子も自分の足で立って木馬で遊ぶようになるだろう。
いずれこの子たちを連れて祖父母の墓参りに行く機会もあるのかもしれない。


爺さんは結婚祝儀のお返し(内祝い)で嫁が選び私が送ったガウンジャケットを愛用してくれていて、その後、傷んできたジャケットの代わりに100歳のお祝いで新しいジャケットを贈った。
爺さんの遺影には、そのジャケットを着て笑顔を向けている写真が使われた。








【蛇足余談】
爺さんは、生前最後に対面した際、ある有名なボクサーが親戚であると話していました。
ただ本当に親戚であるかは不明です。
通夜の喪主挨拶で紹介された爺さんの生涯で、爺さんには8人の兄弟がいたという事だったので、もしかするとそのボクサーは爺さんの兄弟の誰かの孫なのかもしれない、なんて思うものの、祖父亡き今、私の父達を含めてその方達と付き合いのある親戚はいませんし、その消息も不明。勿論、その関係者の葬儀参列もありませんでした。


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